刊行物

「ヘリテージ」

第2回 江戸城に思いをはせる

1838(天保9)年3月、55歳となった初代清水喜助は、焼失した江戸城西丸の再建工事に藤沢清七(後の二代喜助)を伴い参加します。喜助は、ここでの仕事を通じ、西丸老中であった松平伯耆守(宮津藩)をはじめとする諸大名家から認められ、これを足がかりに、活躍の場を広めていきます。
こうした深いご縁が重なり、当社には江戸城に関係した所蔵品があります。

江戸城本丸御殿大奥絵図面

その一つは、全39枚からなる「江戸城本丸御殿大奥絵図面」です。御座之間、御小座敷、松御殿など、ほぼ大奥全室の絵図が残されています。いずれも大棟梁甲良筑前(10代当主)製図のもので、弘化年間(1844~1847)または1860(万延元)年に本丸が再建された時の図面と推定されます。
江戸時代、大工棟梁が作製した図面は彩色がされ、例えば屋根構造については、梁や桁が色分けされて、組み上げ手順が一目で分かるような工夫が施されているのには、驚かされます。
社史資料の1937(昭和12)年の記録に、これらの絵図面は「大島盈株みつもと※1孫大島千代氏(1935(昭和10)年4月~1937(昭和12)年10月当社設計部)ヨリ遠藤於菟おと※2ヲ通ジ当係ニテ譲リ受ケタルモノ」と紹介されています。

江戸城本丸御殿大奥絵図/御小座敷・上御鈴廊下絵図
【江戸城本丸御殿大奥絵図/御小座敷・上御鈴廊下絵図】
将軍の大奥における寝所である御小座敷と将軍が中奥から大奥に渡る時に通る上御鈴廊下を描く
江戸城本丸御殿大奥絵図/御祐筆間御使座敷小屋絵図
【江戸城本丸御殿大奥絵図/御祐筆間御使座敷小屋絵図】
敷梁・小屋梁・梁挟・二重小屋梁が色分けされ、併せて屋根状も表す

※1大島 盈株甲良建仁寺流第十二代継承者
幕末から明治初年にかけ和風建築に重きをなした人物。明治~大正初期には江戸幕府の作事実態について当時の著名な建築誌に発表している。

※2遠藤 於菟建築家
日本近代建築史上に名高い鉄筋コンクリート建築の先駆者。三井物産横浜支店(現・KN日本大通ビル)、旧・横浜生糸検査所(現・横浜第二合同庁舎)などを設計。

江戸城本丸大広間御上棟式の打盤・槌

江戸城に関係するもう一つの所蔵品が、この「打盤と槌」。1860(万延元)年3月に着工、同年11月に完成した江戸城本丸造営の上棟式に用いられた儀式道具です。1928(昭和3)年に甲良家より手斧始儀式道具と共に譲り受けました。
打盤の裏面には、「御本丸御普請 万延元庚申年十一月二六日江戸城大広間 御上棟式打盤 大棟梁 甲良若狭棟全」と墨書きされています。
また、打盤・槌全体には、宝珠(玉)・分銅・七宝・丁字・打出の小槌・鍵・かくれ笠・かくれ蓑・珊瑚・金袋(巾着)・巻物・橋の12種の吉祥文様が色鮮やかに描かれ、上棟式を華やかに飾るにふさわしい式具であったことが想像されます。

江戸城本丸大広間御上棟式に用いられた打盤・槌
江戸城本丸大広間御上棟式に用いられた打盤・槌

現在、江戸城は石垣が残るのみで、残念ながら喜助父子が手がけた江戸城西丸の姿を見ることは叶いませんが、二人が残した大きな功績とともに守り受け継がれてきたこれらの史料も、当社にとって貴重な財産です。