第15回 奈良に息吹くシミズの伝統
当社が手掛けた伝統建築の復元・修復工事を語る上で欠かせないのが、法輪寺三重塔の復元工事と東大寺金堂の昭和の大修理です。
法輪寺三重塔
西岡常一棟梁との出会い
奈良・斑鳩に建つ法輪寺三重塔。622(推古30)年に聖徳太子の病気平癒を願い、山背大兄王らによって建立されたと言われています。その後幾度かの修復を経て、1903(明治36)年に国宝に指定されるも、1944(昭和19)年7月の落雷により焼失します。
「なんとしても再建し次世代に伝えたい」。この熱い想いで、当時の住職・井ノ上慶覺師と康世師、そして作家の幸田文※1氏が再建資金集めのために、全国を奔走します。塔の設計者である竹島卓一氏(名工大名誉教授)を通じ、関係者のご苦労と想いを知った当時の社長・吉川清一は、「貴重な文化遺産の伝承と再建にかける志を無にしてはならない」と、工事の請負を申し出ます。
当社は、この工事で「最後の宮大工」と言われた名棟梁の西岡常一氏※2と出会います。彼の下には全国から腕利きの宮大工が集い、建立当時の伝統工法を用いて見事に三重塔が再建されたのは、焼失から実に31年が経過した1975(昭和50)年の春のことです。工事主任として再建工事に携わった当社OBの八木悠久夫は、西岡棟梁の教え「塔組みは木の癖組み・人の心組み」とともに千年後まで耐え得る建築を学び、その後、東大寺金堂の昭和大修理に挑みます。
※1幸田文(1904~1990) 幸田露伴を父にもつ作家。1965(昭和40)年に法輪寺の井ノ上慶覺住職と出会い、三重塔の再建資金集めに尽力。代表作に、三重塔とその再建への想いをつづった「斑鳩の記」や「黒い裾」などがある
※2西岡常一(1908~1995)最後の宮大工と称され、法隆寺の昭和大修理(1931(昭和6)年~1954(昭和29)年)をはじめ、薬師寺金堂や西塔の復元などを手がける。吉川英治文化賞を受賞したほか、宮大工として初の文化功労者に選ばれる
技術屋の宿命
「20世紀の技術を駆使して古代飛鳥建築の理想を追求・再現しようとした竹島先生と、宮大工として代々伝承してきた技術をもって再建を望む西岡棟梁の間には激しい論争がありました。それはお二人の塔を愛する信念から来るものです。何百年か後にその時代の人たちが塔を評価してくださる。それがわれわれ技術屋の宿命なのです」と八木は語ります。
往時の姿に戻った塔を前に、住職の井ノ上妙覺師は「再建できたのは多くの方々の熱意と努力、そして技術の結晶があったからこそ」と深い感謝の想いを述べています。
東大寺金堂(大仏殿)昭和大修理
歴史の生き証人
東大寺大仏殿は、奈良時代に建立されました。2度の焼失を経て、1709(宝永6)年に建設された現在の大仏殿は、世界最大級の木造建築です。
昭和の大修理は、面積7,900m2の屋根を覆う13万枚の瓦を葺き替える、7年越しの大工事となりました。
最初の工程は、大仏殿そのものをすっぽり覆う巨大な素屋根(仮設工場)づくり。国宝を傷つけないことが絶対条件の中、大仏殿の片側で順に素屋根の鉄骨ユニットを組み立て、反対側に押し出していくスライド工法を採用。屋根上での作業なしに、素屋根が完成していきました。
その中で行われた大修理は、瓦の撤去、軒の修正、屋根下地の取り替え、瓦の復旧と続きます。元禄や明治の修理で取り付けられ、時を経て腐朽した垂木や鴟尾が昭和のそれと取り替えられていく光景を目の当たりにした八木は、「あたかも自分が歴史の生き証人になったような感覚に駆られました」と当時を振り返ります。
色あせない感謝の想い
大仏殿の大修理は歴史的な大事業で、国内・海外の建築関係者やメディアが注目している上、多くの参拝者が連日訪れるので、緻密な安全管理が要求されました。「一日たりとも神経が休まることはなかった」と語る八木とともに工事を見守った当時の庶務執事(兼大仏殿昭和修理担当)・守屋弘斎師は「八木主任には全幅の信頼を寄せていたので、私はただただ工事の無事と素晴らしい大仏殿の完成を祈るばかりでした」と当時を懐かしく話されます。
1980(昭和55)年の落慶法要の日、報道陣のインタビューに「本日、無事に大仏殿を皆様にお返ししたような気がします。今はホッとした安堵感だけがあります」と胸中を吐露した八木。それから30年近くが経過した今回の取材で、「西岡棟梁をはじめ多くの宮大工や職人たちとともに築いた喜び、この大事業に参加させていただいたという感謝の想いは、今も色あせることはありません」と語る姿が何とも印象的でした。