第20回 歴史に残る建造物(その8) 「第一生命館(現・DNタワー21)」
潜函(せんかん)工法で日本初の地下4階
1938(昭和13)年の竣工当時、「建築科学を総動員して天地を征服せる新興建築」とうたわれた第一生命館。近代建築の大家・渡邊仁※が設計を手掛けた、列柱が並ぶ重厚な古典様式の建物です。また、中央監視室や日本初の統計事務機械などを設置した当時の最先端のオフィスビルであり、戦災を逃れた数少ない建物でもあります。
建設に当たって最大の課題となったのは、国内初の地下4階建てを実現させるための、地下工事における軟弱地盤対策でした。
幾度も調査・研究を重ねた末、当時としては画期的な技術であった潜函工法を採用。この工法は、コンクリート製の巨大な函を敷地の周囲に15基設置した後、函の下部の土を人力で掘りながら、支持地盤まで函を自重で沈めるというもの。これが堰の役目を果たし、敷地外からの水の流入を防ぐことができるのです。
この途方もない工事は、昼夜の別なく慎重に行われ、着工から18カ月を要しました。その間の無事故無災害を支えたのは「技術者一同の大変な努力と熱意だった」という、現場の応援で常駐した吉川清一(後の社長)の言葉が残されています。
※渡邊仁(1887~1973)1912(大正元)年東京帝国大学建築学科卒業後、鉄道院、逓信省を経て、1920(大正9)年に渡邊仁工務所を開設。以降、近代建築の大家として活躍した。代表的作品に「ホテルニューグランド」(1927(昭和2)年、横浜)、「銀座服部時計店(現・和光)」(1933(昭和8)年、銀座)、「東京帝室国立博物館(現・東京国立博物館)」(1937(昭和12)年、上野)など。
魂の込められた建物
工事記録によると、約4年3カ月に及んだ第一生命館工事の従業者は、延べ92万人。また、鉄骨と鉄筋の使用量も半端ではありませんでした。その量たるや、1万6,000t。これは、同規模ビルの使用量の2倍に匹敵します。その背景には、お客様の保険証書を天変地異・人災・その他いかなる事故からも守るため、堅牢で安全なビルの完成を願った、第一生命保険会社・矢野恒太社長(当時)の思いがありました。
第一生命の営業担当を長く務めた当社OBの大槻正博(元副社長)は、著書『回想―清水建設と私』の中で次のように述懐しています。
「東京オリンピック開催前夜にライトアップされた第一生命館がお濠にシルエットを落とし、それは本当に幻想的な光景でした。その時、矢野氏が私に、『この建物は東京中の建物が仮に壊れるようなことがあっても壊れないよ。この建物には君たちの先輩の魂が入っているからね』と語られた言葉が、今でも忘れられません」。
歴史をつなぐビッグプロジェクト
竣工後は、戦災、接収という困難に遭いながらも、半世紀にわたって利用されてきた第一生命館。しかし、オフィスビルとしての機能低下は避けられず、21世紀の本社社屋にふさわしい建物への建て替えが計画されます。同様の課題は、隣接する「農林中央金庫有楽町ビル」(1933(昭和8)年竣工・当社施工)も抱えていました。
折しも、歴史的建築物の保存に対する社会的機運が高まっていたことから、この二つの建物を保存・再生しながら一つの街区として共同開発することを決定。これが、現在の「DNタワー21」なのです。東京都制定の「歴史的建築物保存による特定街区」という新しい手法を使ったこの再開発事業は、1988(昭和63)年の計画開始から1995(平成7)年の完成までに8年近くの歳月を要し、当時としては国内最大規模のプロジェクトとなりました。
一方、二つの建物の一部を取り壊し、再構築しながら、最先端の高層オフィスビルへと生まれ変わらせるというプロセスは、通常の新築工事と比べてはるかに難しく、数多くの意匠的・技術的課題に直面することになります。そうした中、保存部分と新築部分の融合が図られ、古い建物の躯体を尊重しながら内外部のデザインに新しい命が吹き込まれました。
同時に、第二次大戦の金属供出で失われていた、窓の面格子や化粧グリルなどの貴重なパーツは、当時の図面や写真を基に、新たな技術によって細部に至るまで復元されました。
この難工事を克服した工事関係者は「経験したことのない難課題への挑戦と同時に、先人が遺した名建築を通して、当時の技術者たちの知恵や工夫の跡を改めて学ぶ機会でもあった」と口を揃えます。
1世紀以上にわたる得意先との信頼関係
第一生命保険と当社とのつながりは古く、1906(明治39)年竣工の「第一生命保険会社本店」に始まります。
その後も1921(大正10)年竣工の「第一相互館」のような名建築をはじめ、今日に至るまで、数々の建物をご下命いただいています。
建物を通してつながる得意先との信頼関係の土台には、われわれの先輩方の努力と熱意、そして技術の結晶があることを忘れてはなりません。