第21回 「石橋徳次郎邸(現・石橋迎賓館)」
福岡県久留米市役所のほど近くに、ひときわ瀟洒で美しい洋館があります。清水組の手で1933(昭和8)年に完成したこの建物は、株式会社ブリヂストンの母体となった日本足袋株式会社(現・アサヒシューズ)の創業者・石橋徳次郎の私邸として建設されたものです。現在は、門柱に「石橋迎賓館/ISHIBASHI MANSION」と記され、迎賓施設として利用されています。
石橋徳次郎邸
- 竣 工
- 1933(昭和8)年
- 所在地
- 福岡県久留米市
- 設 計
- 松田建築事務所
- 構造・規模
- B1-2F-PH1
延床面積 約964m2
現在はブリヂストンが所有。
通常は非公開だが、記念イベントなど行事の折りに公開
スパニッシュ建築の代表作
石橋徳次郎は自邸の建築に際し、設計を依頼した松田軍平※1の案内で、東京の目ぼしい住宅をくまなく見て歩きました。中でもスパニッシュ様式※2をことのほか気に入り、この建築スタイルの建物を松田に要望します。その施工者に選ばれたのが、当時、スパニッシュ建築を数多く手掛け実績を積んでいた清水組でした。
建物は約1万200m2もの広大な敷地に建ち、外壁の淡いクリーム色と屋根に配したスペイン瓦の青緑色との対比が実に鮮やかです。このスペイン瓦は円柱を半分に割った形をしており、それらを下から上へ順々に重ねた屋根は、“波”を想起させる美しい形状を有しています。また、テラスに面して設けられた放物線アーチを描く開口部や、小さな穴が縦横に並ぶ装飾的な通気孔など、スパニッシュ様式ならではの意匠がそこかしこにバランス良く配されているのが印象的です。
当社に残されている『工事竣功報告書』によると、工期わずか1年の工事に従事した人員は延べ1万4,233人。建物は、耐震耐火構造や外壁の木造二重壁により耐熱性・耐寒性が確保され、また、当時では珍しい温水自然循環式暖房や給湯設備も設置されるなど、最先端の邸宅であったことがうかがえます。
※1松田軍平(1894~1981)大正末から昭和期にかけ活躍した建築家。1918(大正7)年名古屋高等工業学校(現名古屋工業大学)卒業後、清水組設計部に入社。1921(大正10)年退社後、コーネル大学建築科(米国)、トローブリッジ&リビングストン建築事務所にて学ぶ。帰国後、1931(昭和6)年に松田事務所(後の松田平田設計事務所)を開設。日本建築家協会初代会長。主な作品に、三井本館(1929(昭和4)年・重文)、旧三井物産門司支店(1937(昭和12)年)、旧・ブリヂストン本社(1952(昭和27)年)など。
※2スパニッシュ様式 スペイン植民地時代のアメリカ南西部で普及したスペイン風建築のリヴァイバル様式。緩やかな傾斜を持つ屋根や、明色のスペイン瓦と白色の壁面との鮮やかな色彩対比、アーチ開口などが特徴。
建物に寄せる思い
石橋邸を手掛けた松田軍平には、このスパニッシュ建築を語る上で欠くことのできない人物との出会いがありました。その人物こそ、設計技師として当時の清水満之助店に入店した後の副社長・小笹徳蔵※3です。
小笹は、関東大震災の翌年の1924(大正13)年11月に欧州を視察。その折にスパニッシュ建築の美しさに魅了され、帰国後、スパニッシュ様式を存分に活かした作品を数多く手掛けました。松田は小笹の学校の後輩に当たり、また一時期、清水組に在籍していたこともあり、「小笹氏には先輩として大変に面倒を見てもらった」と後に語っています。
その松田は『石橋邸新築に就いて』と題し、住宅設計への思いを次のように記しています。
「従来の住宅は往々にして客本位として作られたものが多い様ですが、本来の目的は日常使用さるゝ家族を主として計画されねばならぬと思います。(中略)理想的の家を作るには建築主と設計者と施工者の完全なチームウォークが何より大切なことと思はれます。清水組始め設備工事の方々が誠意を以て施工完成された事を私の衷心より感謝する次第です」(原文ママ)
当社には、明治から大正、昭和期に、多くの邸宅を手掛けてきた歴史があります。その代表作の一つであるこの建物は、“理想の家”としての役割を終えた今も、迎賓施設として大切に使われ続けています。
※3小笹徳蔵(1890~1971)
1913(大正2)年名古屋高等工業学校建築科卒業後、清水満之助店技術部(現設計部)に入店。その後現業に転じ、名古屋支店長、常務理事、専務取締役を経て1950(昭和25)年に副社長就任。当社におけるスパニッシュ建築の第一人者として活躍。主な作品に、京都ホテル(1928(昭和3)年)、第一銀行横浜支店(1929(昭和4)年)など。