刊行物

「ヘリテージ」

第26回 深川旧渋沢栄一邸 階段手すりと棟札(むなふだ)

「日本資本主義の育ての親」であり、当社の相談役として今日の経営の基盤を築いた渋沢栄一。渋沢が東京に構えた邸宅の多くは、当社が手掛けました。第一国立銀行などの建築で渋沢の厚い信頼を得た二代清水喜助は、1878(明治11)年、深川区福住町(現・江東区永代)に渋沢の本邸となる見事な二階建て和風住宅を完成させました。

古牧温泉渋沢公園内に移築された旧渋沢邸。右側の二階屋が二代喜助の手によるもの。
古牧温泉渋沢公園内に移築された旧渋沢邸。右側の二階屋が二代喜助の手によるもの。

棟梁としての技術の粋を集めた建物

二代喜助が、深川に居を移した渋沢の本邸新築に着手したのは1877(明治10)年。翌年に完成した建物は、神代杉の一枚板や黒柿、南天などの希少材が用いられ、棟梁としての優れた技を駆使して仕上げられました。
一階和室から二階へと通じる階段の手すりには、かえるまたを上下に組み合わせたような形状の手すり子が設えられました。この階段には、華美を好まず質素を信条とした渋沢栄一の心意気がうかがえるエピソードが残されています。
二代喜助が階段の親柱の上に著名な彫刻家の唐獅子の像を取り付けようとしたところ、渋沢の意には沿わず、「住まいはそれぞれの分に応ずべきである」と諭され、ついに取り付けることはかなわなかったといわれています。

階段の手すり子
階段の手すり子
2階から見た階段
2階から見た階段

手すりをはじめ当時の建物は、釘や金物類を使わず、はめこみ式の継ぎ手・仕口で仕上げられている。階段には黒柿やケヤキの材が用いられた。

現代に残る二代喜助の作品

後に清水組技師長となる岡本おかもと銺太郎そうたろう※1による離れの増築後、1908(明治41)年に渋沢邸は深川から三田綱町へ移築されます。その後、渋沢敬三(渋沢栄一の孫)の意向で、西側に当時清水組に在籍していた西村好時よしとき※2設計の洋館を増築。関東大震災と戦災を奇跡的に免れ、財産税として国に物納された建物は、以後、大蔵大臣公邸、共用会議所として使用されました。
1991(平成3)年、青森県三沢市の古牧温泉渋沢公園内に移築保存が決まり、当社は誠意を尽くしてこの工事に当たります。

工事の途中、小屋裏で見つかったヒノキの箱の中から、深川邸新築、三田綱町への移築、洋館増築時に納められた棟札が見つかりました。3枚の棟札には、工匠の名として清水喜助、清水満之助、清水組の名が記されています。
この時当社は、新築時の棟札と母屋の階段手すりの一部分を譲り受け、渋沢の経営哲学と共に二代喜助の進取の精神を伝える社宝として、大切に保存することにしました。
二代喜助の作品として現存するものは、三囲(みめぐり)稲荷内社殿とこの旧渋沢邸のみです。明治の竣工以来、時を重ねてなお、往時の風格が感じられる建物は、二代喜助や当時の棟梁たちの腕の高さを証明しています。
深川邸新築時の棟札。裏面(左)の記号()は、易の八卦のひとつでかんと言う。「水」を表し、火除けの願いが込められたといわれる

※1岡本銺太郎(1867~1918)多くの鉄道敷設や再建事業に携わった実業家。文化、教育事業にも尽力し、根津美術館や武蔵大学(いずれも当社施工)を開設した。

※2西村好時(1886~1961)東京帝国大学工科大学建築学科卒業後、1914(大正3)~1920(大正9)年まで清水組に在籍。後に西村建築事務所を開設。銀行建築の大家として知られる。