第12回 「矢作水力泰阜発電所」
当社の土木史を語る上で欠かせない工事の一つが、泰阜発電所。本格的な重力式コンクリートダムとして、1936(昭和11)年に建設されました。当時、同発電所の出力、ダムの規模ともに国内屈指。それまでダムはもちろん、大型土木工事の経験さえ乏しかった当社は、威信をかけてこの難工事に挑みます。
自然の脅威との戦い
当社に土木専門の部署(工事部第六部)が発足したのは1927(昭和2)年のこと。1930(昭和5)年の改称をもって土木部となります。それからわずか2年後の1932(昭和7)年、経験豊富な業者にとっても難工事中の難工事と言われていた泰阜発電所工事を受注します。
“あばれ天竜”の異名を持つ天竜川を堰き止める工事は困難を極めました。事実、工期中に見舞われた洪水は十数回。その濁流は建築物や資機材など、すべてを一瞬にして呑み込んでしまうほど激しいものでした。
さらには1934(昭和9)年11月。堰堤本体基礎の河底部分の掘削完成を控えた工程上最も重要な時期にありながら、左岸山腹が大崩壊。現場関係者はもとより、会社として物心両面から叩きのめされるほどの過酷な状況を招いたのです。
今後も土木の勉強を続ける
4年の歳月を費やし、まさに当社の総力を結集して工事を完成させたものの、当時の当社の半期利益(約100万円)を上回る損失を出すことになります。ダム工事の経験不足は、いかんともしようがなかったのです。
工事の最高責任者、谷井陽之助※1は後に、『新入社員に贈る言葉』の中で、「昭和10年12月に大堰堤の工事を終え、始めて水を通し水車の爽快な音とともに運転を開始した時には、工事に関連した私どもは泣けて泣けて涙が止まらなかった」と語っています。
谷井はその涙も乾かないうちに東京に戻り、病床の専務取締役・内山熊八郎※2を訪ねて完成を報告。内山はその一報に安堵し、涙を流しながら谷井と工事関係者らに感謝の意を伝え、翌1936(昭和11)年1月に亡くなります。内山は建築出身でありながら、「泰阜ダムも当社にとって貴重な経験。今後も土木の勉強を続けていくことが大切だ」と最後まで語っていたそうです。
事実、この工事の経験は後の黒又川ダム工事の入手につながり、泰阜で育った技術者が後の土木部の担い手となっていったのです。
※1谷井陽之助1916(大正5)年九州帝国大学工科大学土木工学科卒。東京市技手、東京鉄骨橋梁製作所の技師長を経て、1934(昭和9)年に土木技師長として清水組入社。泰阜ダムでは最高責任者として現場の指揮に当たる。1940(昭和15)年取締役、1947(昭和22)年常務取締役、1951(昭和26)年退社。
※2内山熊八郎1900(明治33)年、築地工手学校(現・工学院大学)建築学科を首席で卒業。1902(明治35)年に入店。1916(大正5)年に当社初の工事長の一人に任命され、清水組の盤石な営業基盤を築いていった。1933(昭和8)年専務取締役、1936(昭和11)年1月逝去、享年54。