第13回 近代建築の巨匠「辰野金吾」と当社のつながり
日本人の手によって本格的な西洋建築が登場するのは、1879(明治12)年以降のこと。その立役者の一人が辰野金吾博士です。
当社は、多くの名建築を残した辰野博士とつながりが深く、多くの辰野作品を手掛けています。
絶大な信頼を得た清水店と内山工事長
辰野博士は、工部大学校造家学科(現・東京大学工学部建築学科)の第1回生。1879(明治12)年に首席で卒業した後、英国に留学。帰国後は、工部大学校教授、学長、造家学会(現・日本建築学会)会長を歴任する傍ら、日本の近代建築の顔となる作品を数多く手掛けます。辰野作品は、赤レンガに白い石を巡らせるデザインが特徴で、「辰野式」とも称されます。
一方、辰野博士は、仕事の上では大変な気難し屋でもありました。施工業者や職人たちは辰野博士を恐れ、博士の手掛けた建物の堅牢さにひっかけて、「堅固おやじ」と呼んでいたという逸話もあります。
そんな辰野博士が「最後まで納得のいく仕事をしてくれる」と褒めたのが清水店でした。中でも工事長・内山熊八郎に対する信頼は絶大で、自分の作品を清水店が施工する際には、決まって内山を指名したと語り継がれています。
全国で手掛けた辰野作品
こうした関係もあり、当社は多くの辰野作品を手掛けます。日本橋兜町渋沢邸や英吉利法律学校をはじめとして、全国に作品を辿ることができます。
また当社は、1886(明治19)年に辰野博士の推薦により、工学士・坂本復経を初代技師長※に招きます。ここに、設計部の始点となる組織「製図場」が誕生、設計施工一貫体制の基盤をいち早く確立します。そこには、自分の仕事は自ら設計し、お客様の満足に十分に応えたいとの強い信念がありました。
以降も、辰野博士の教鞭の下に育った技師たちが清水店に入店して西洋建築を手掛け、当社の発展を担います。
※技師長製図や施工など建築技術全般の監理を担う、技術畑の最高責任者。